Newsletter (Equipper)

錦織 学Nishikori
ec10講師
ニュージャージー日本語キリスト教会牧師

私たちの本当の姿というのは嵐の中で現れます。想定外のことが起こる時も神様が導いてくださると分かっていても、いざ嵐が来るときに本当の姿が分かります。イエスは二つの家の話をされました。一つは岩の上に、もう一つは砂の上に建てた家。いつもは同じように見える家も、嵐が来るときに本当の価値がわかります。嵐の時に砂の上に立てた家はつぶれてしまい、岩の上に立てた家は立っています。嵐の時に本当の姿が分かるのです。

ペテロの姿(ルカ22:31-34)

ペテロはイエスのために一生懸命歩んだ人でした。しかし、嵐がやってきた時、彼は本当の姿が分かりました。イエスが十字架につけられる前の晩、「あなたは私のことを3回知らないと言う、でも、あなたが信仰を回復したらみんなを励ましてあげなさい」とイエスに言われた時、「私は牢にでもどこまでもついて行きます」と自信を持って言いました。しかし、人々に「あなたはイエスの弟子だ」と言われたときに3度否定してしまいました。彼は自分の本当の姿を見せつけられたのです。ペテロが網を捨ててまでイエスについて行ったのは、自分の夢をイエスにかけていたからです。ペテロはイエスに「あなたは生ける神の子キリストです」と言いました。しかし、ペテロにとっての「神の子キリスト」は、イエスご自身が救いの御業をなさろうとされたのと違っていました。ペテロは自分流の考えでイエスがキリストであると言いました。だから、その後にすぐ、イエスには十字架にかからないでほしいと言うのです。ある意味、ペテロはイエスについて行くことで自己実現しようとしたのではないでしょうか。私たちは自己実現のためなら財産を投げ捨て、人生をかけます。ペテロはまさにそのような歩みをしていました。そのペテロは嵐を前に自分の弱さを認めさせられました。ペテロにはその嵐がどうしても必要だったのです。

イザヤの姿(イザヤ6章)

イザヤは王様にものの言えるほどの預言者でした。神様の代弁者として語っていました。しかし、神様の聖さの前に立ったときに、彼は自分の姿を見ました。唇で預言者としての務めをしていたイザヤが唇が汚れていると言いました。このイザヤに神様が触れられます(6節)。イザヤに聖壇の火が触れます。これはイエスの十字架を表しています。イエスの十字架が私たちを聖めます。私たちの聖さへの歩みは、自分の弱さを認め、主の恵みの前に全面降伏することです。そこにこそ私たちの解決があります。

自己実現の誘惑と砕かれる経験

私たちが神様のために一生懸命になるときに、自己実現の誘惑がやってきます。しかし、そこで神様は私たちの弱さ、ご自身の聖さを示してくださるのです。そこで砕かれた者、ペテロやイザヤのように砕かれた者が初めて神様に用いられるチャンスがあります。私たちは嵐の中で本当の姿を見せ付けられ、苦しみ、落ち込みます。でも、その時が神様と出会うチャンスなのです。

私たちが神様の聖さを映していく生涯は、自分がどこまで聖くなったかよりもイエスの十字架の愛に目が行く歩みのことです。自分の弱さを見せ付けられる時、そこに注がれる神様の愛がもっと分かっていくことが私たちの聖さへの歩みです。

わたしの姿

私はある時、自分は外側だけはクリスチャンらしいけど、内側は本当に醜いものが渦巻いているという事に気がつきました。自分は偽善者だと思いました。聖書を読んできたのに、自分が昔から一番なりたくなかった偽善者になってしまったことに、全てが馬鹿らしくなってしまいました。でも、何とか救いを得たいと思って、いろんな人々に相談して回りました。

なかなか解決が見つからない中で、あるキャンプの講師に、自分の姿に絶望したこと、どうしたらよいのかを相談しました。その先生は「君は本当に傲慢だね。君はまだ自分に期待しているの?君が頑張って良い人間になろうとしてもなれないから、イエスは君のために十字架にかかったんだよ。」と言われたのです。そのとき、頑張っても偽善者にしかなれないような自分をイエスは愛してくださり、自分の命を投げ出してくださったということが初めて分かりました。この神様の愛に気づいてときに、人の目を気にして生きてきた自分が、今度はこの愛に応えてどのように生きていこうかという思いに変えられました。

神様の聖さの歩み

それが神様の聖さをいただいていく歩みです。自分の力で立派になろう、聖くなろうとしても、せいぜい偽善者どまりです。イエスは私たちが立派だから愛したのではなく、私たちがまだ罪の中にいたときに命を投げ出し、愛されたのです。その事実に感謝して歩むのです。