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サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ牧師 鍵和田哲男
救われているかどうかは、外から見てわかるものではありません。きらきら星が周りに光ってくれているならわかりやすいのですが、そんなことは起こりません。だからこそ、自分自身が「私は救われている」という確信を持ち続けていることは、クリスチャンにとってとても大切なことなのです。また、その確信に立っているいとき、他のクリスチャンを励ますことができます。
クリスチャン人生だって、山あり谷あり、つまづきつまづかせ…そんな中でともすれば自分は救われているのか、あるいはあの人は救われているのだろうかという疑問が出てくることがあります。
A なぜ救いの確信がないのか。
①救われていないから
これは当然のことです。その人に大切なことは、イエス様を信じることです。また、洗礼を受け“クリスチャン”と呼ばれているのに、あるいは自分はクリスチャンだと思っているのに確信がないという人がいます。たとえば、クリスチャンが主催している楽しい集会に参加して、「楽しいな。友達がたくさんできた。みんな親切。クリスチャンっていいな。」という流れでクリスチャンとなる人がいます。はっきり言いますが、その人はクリスチャンではありません。イエス様を信じた人がクリスチャンなのです。「信じていますよ」という声が聞こえてきそうですが、聖書を見てみましょう。
「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」ヤコブ2:19
実は、悪魔もイエス様が十字架にかかったこと、イエス様が神様だということを信じているというのです。しかし、悪魔は救われてはいません。なぜ? 悪魔はイエス様に従う気などこれっぽっちもないからです。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9
なんと告白すると記されていますか? そうです。「イエスは主」つまりイエス様を私のご主人様とする、私はイエス様に従います、と告白する者が救われ、クリスチャンとなるのです。みなさん、イエス様はあなたの友達ではありません。(イエス様はあなたを友のように扱ってくださる方ですけれども・・・。)イエス様を救い主、私の主とするということは、文字通り主人と仰いで、従うということなのです。従えたかどうか、今従えているかを問題にしているのではありません。人間は失敗もするし、落ち込むこともあります。でも、従おう、従いたいという思いをもって「信じます」と告白した者がクリスチャンなのです。だから、「うれしい楽しい。友達が皆クリスチャン。友達を失くしたくない。」等の思いだけで洗礼を受け『クリスチャン』になると、数日、数ヶ月は良くても、だんだんと喜びがなくなり、救いの確信がなくなってくるのです。そういう人はもう一度、イエス様を信じるという意味を考えてみる必要があります。信じる=従うという信仰を自分は持っているか、点検しましょう
また、クリスチャンホームに生まれ育った人も、似たような経験をするのではないでしょうか。Jesus is my friend.  He loves me.(イエス様は私のことを愛してくれる友達)から Jesus is my Lord.  He died n the cross for me.(イエス様は私の罪のために死んでくださった主)へと、はっきりと自覚する時が必ずあるはずです。
もし、あなたやあなたの周りの人が、救いの確信をなくしているなら、どうか、イエス様をどのようにして信じ、イエス様という御方があなたにとってどのような存在なのか、真剣に考えてみてください。失敗しても失敗し続けてもいいのです。「七度を七十倍するまで赦しなさい。」とおっしゃった御方は、私たちが何度失敗しても赦し続けてくださる御方です。いや、その失敗、罪を忘れてくださる御方です。(イザヤ43:25)私たちに必要なのは、従おうという、主への思い、姿勢なのです。
②だめな自分を見るから
人と自分を比べたり、あるいは他の人、特に家族から「お前はそれでもクリスチャンか」等と厳しい言葉を浴びせられたりすることがあります。そんな時、自分を見て、「私は救われているのだろうか。あの人のようにはできない。こんなんじゃ家族や周りに証しが立てられない。」と落ち込んでしまうのです。特に日本人は人と自分を比べ、比較の中で物事を見やすいのです。「この人は素晴らしい。私はだめだ。でもあの人よりはましだ。」と。しかし聖書は、このラインに達しなければクリスチャンにはなれないとは決して言いません。
「それでもあなたはクリスチャン?」と言われても、自信をもって「そうです。」と言えば良いのです。「それでもあなたはクリスチャンになれる。」のです。イエス様に従おうという思いと決断があれば、あなたの状態がどうでも、過去がどうでも、さらに将来がどうでも、クリスチャンになることはできるし、確信を持って「私は救われています。クリスチャンです。」と言えるのです。
③教会や牧師につまづいたから
パーフェクトな教会など世界中探しても一つもありません。なぜならパーフェクトでない人間の集まりだからです。つまづきはさけられません。しかし、神様は「あなたがたを、つまづかないように守る方」だとユダ24に記されています。言い換えれば、神様にしっかりつながっていさえすれば、決してつまづくことなどないのです。つまづく方にも問題があるということです。先ほどの①で語ったようにして『クリスチャン』となった人は、些細なことでつまづきます。それは、雰囲気や感情が先走り、イエス様に従うことに根ざしていないからです。
B. 救いの確信はどこから来るのか。
①御言葉からの確信
自分の感情や状態を基準にするからおかしくなるのです。神様の言葉が「私はあなたを救った。」と言っているならそれ以上のものを求める必要がどこにあるでしょう。
②聖霊による確信
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ローマ8:16
皆さんの中で、クリスチャンになってから、今まで味わったことのない喜びがあふれてきたという経験をされた方はいるでしょうか。私も苦手なことをする中にも賛美があふれ喜びがあふれてきたという経験があります。聖霊が働かれると喜びがあふれてきます。これは人間がマニュアル化して「こうすれば聖霊による確信が与えられます。」というようなものではありません。いつどういうところで聖霊が働かれるかはわからないのです。
ただ、私たちが心に留めるべき注意点はいくつかあります。
*悔い改め
イエス様の十字架は私の罪のためです。あなたは自分の罪を悔い改めましたか?できたら、独りでではなく、牧師、あるいは、信頼できる信仰の先輩など複数で神の前に出て祈り悔い改める時を持ちましょう。聖書に記されている悔い改めの記事は、すべて複数です。なぜなら、自分の恥ずかしいところ、汚いところを神様と人の前で告白して十字架を仰ぐということは、へりくだっていなければできません。神様は悔い改めという行為を喜ばれるのではなく、悔いる心、へりくだる心を喜ばれるからです。
*交わり
ディボーションはとても大切です。一日数分でも、イエス様と交わり御言葉に耳を傾け黙想し、祈る時を持つことは、私の内におられる聖霊が喜ばれ、その喜びが私に満ち溢れてくるからです。
*ミニストリーに加わる
伝道することにはそれが顕著に現れます。伝道すれば伝道するほど、救いの確信ははっきりしてきます。教会のあるいは超教派のさまざまな働きに積極的に参加しましょう。牧師伝道者だけではなく、一人ひとりが御言葉を宣べ伝えていく業に加わるなら、その人は「私は救われているだろうか?」と救いの確信が揺らぐことは決してありません。
救いの確信が揺らぐ、その時はある意味自分の信仰を吟味するチャンスなのかも知れません。イエス様に従うということは、喜びと祝福に満ちていますが、決断と犠牲も伴います。しかし、御言葉の約束に立ち、内におられる聖霊の声に聞きつつ、与えられたミニストリーに積極的に関わっていくなら、クリスチャン人生、こんな生きがい、やりがいのある人生はありません。

revkagiwadaサウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ牧師 鍵和田哲男

救われているかどうかは、外から見てわかるものではありません。きらきら星が周りに光ってくれているならわかりやすいのですが、そんなことは起こりません。だからこそ、自分自身が「私は救われている」という確信を持ち続けていることは、クリスチャンにとってとても大切なことなのです。また、その確信に立っているいとき、他のクリスチャンを励ますことができます。

クリスチャン人生だって、山あり谷あり、つまづきつまづかせ…そんな中でともすれば自分は救われているのか、あるいはあの人は救われているのだろうかという疑問が出てくることがあります。

A なぜ救いの確信がないのか。

①救われていないから

これは当然のことです。その人に大切なことは、イエス様を信じることです。また、洗礼を受け“クリスチャン”と呼ばれているのに、あるいは自分はクリスチャンだと思っているのに確信がないという人がいます。たとえば、クリスチャンが主催している楽しい集会に参加して、「楽しいな。友達がたくさんできた。みんな親切。クリスチャンっていいな。」という流れでクリスチャンとなる人がいます。はっきり言いますが、その人はクリスチャンではありません。イエス様を信じた人がクリスチャンなのです。「信じていますよ」という声が聞こえてきそうですが、聖書を見てみましょう。

「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」ヤコブ2:19

実は、悪魔もイエス様が十字架にかかったこと、イエス様が神様だということを信じているというのです。しかし、悪魔は救われてはいません。なぜ? 悪魔はイエス様に従う気などこれっぽっちもないからです。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9

なんと告白すると記されていますか? そうです。「イエスは主」つまりイエス様を私のご主人様とする、私はイエス様に従います、と告白する者が救われ、クリスチャンとなるのです。みなさん、イエス様はあなたの友達ではありません。(イエス様はあなたを友のように扱ってくださる方ですけれども・・・。)イエス様を救い主、私の主とするということは、文字通り主人と仰いで、従うということなのです。従えたかどうか、今従えているかを問題にしているのではありません。人間は失敗もするし、落ち込むこともあります。でも、従おう、従いたいという思いをもって「信じます」と告白した者がクリスチャンなのです。だから、「うれしい楽しい。友達が皆クリスチャン。友達を失くしたくない。」等の思いだけで洗礼を受け『クリスチャン』になると、数日、数ヶ月は良くても、だんだんと喜びがなくなり、救いの確信がなくなってくるのです。そういう人はもう一度、イエス様を信じるという意味を考えてみる必要があります。信じる=従うという信仰を自分は持っているか、点検しましょう

また、クリスチャンホームに生まれ育った人も、似たような経験をするのではないでしょうか。Jesus is my friend. He loves me.(イエス様は私のことを愛してくれる友達)から Jesus is my Lord. He died n the cross for me.(イエス様は私の罪のために死んでくださった主)へと、はっきりと自覚する時が必ずあるはずです。

もし、あなたやあなたの周りの人が、救いの確信をなくしているなら、どうか、イエス様をどのようにして信じ、イエス様という御方があなたにとってどのような存在なのか、真剣に考えてみてください。失敗しても失敗し続けてもいいのです。「七度を七十倍するまで赦しなさい。」とおっしゃった御方は、私たちが何度失敗しても赦し続けてくださる御方です。いや、その失敗、罪を忘れてくださる御方です。(イザヤ43:25)私たちに必要なのは、従おうという、主への思い、姿勢なのです。

②だめな自分を見るから

人と自分を比べたり、あるいは他の人、特に家族から「お前はそれでもクリスチャンか」等と厳しい言葉を浴びせられたりすることがあります。そんな時、自分を見て、「私は救われているのだろうか。あの人のようにはできない。こんなんじゃ家族や周りに証しが立てられない。」と落ち込んでしまうのです。特に日本人は人と自分を比べ、比較の中で物事を見やすいのです。「この人は素晴らしい。私はだめだ。でもあの人よりはましだ。」と。しかし聖書は、このラインに達しなければクリスチャンにはなれないとは決して言いません。

「それでもあなたはクリスチャン?」と言われても、自信をもって「そうです。」と言えば良いのです。「それでもあなたはクリスチャンになれる。」のです。イエス様に従おうという思いと決断があれば、あなたの状態がどうでも、過去がどうでも、さらに将来がどうでも、クリスチャンになることはできるし、確信を持って「私は救われています。クリスチャンです。」と言えるのです。

③教会や牧師につまづいたから

パーフェクトな教会など世界中探しても一つもありません。なぜならパーフェクトでない人間の集まりだからです。つまづきはさけられません。しかし、神様は「あなたがたを、つまづかないように守る方」だとユダ24に記されています。言い換えれば、神様にしっかりつながっていさえすれば、決してつまづくことなどないのです。つまづく方にも問題があるということです。先ほどの①で語ったようにして『クリスチャン』となった人は、些細なことでつまづきます。それは、雰囲気や感情が先走り、イエス様に従うことに根ざしていないからです。

B. 救いの確信はどこから来るのか。

①御言葉からの確信

自分の感情や状態を基準にするからおかしくなるのです。神様の言葉が「私はあなたを救った。」と言っているならそれ以上のものを求める必要がどこにあるでしょう。

②聖霊による確信

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ローマ8:16

皆さんの中で、クリスチャンになってから、今まで味わったことのない喜びがあふれてきたという経験をされた方はいるでしょうか。私も苦手なことをする中にも賛美があふれ喜びがあふれてきたという経験があります。聖霊が働かれると喜びがあふれてきます。これは人間がマニュアル化して「こうすれば聖霊による確信が与えられます。」というようなものではありません。いつどういうところで聖霊が働かれるかはわからないのです。

ただ、私たちが心に留めるべき注意点はいくつかあります。

*悔い改め

イエス様の十字架は私の罪のためです。あなたは自分の罪を悔い改めましたか?できたら、独りでではなく、牧師、あるいは、信頼できる信仰の先輩など複数で神の前に出て祈り悔い改める時を持ちましょう。聖書に記されている悔い改めの記事は、すべて複数です。なぜなら、自分の恥ずかしいところ、汚いところを神様と人の前で告白して十字架を仰ぐということは、へりくだっていなければできません。神様は悔い改めという行為を喜ばれるのではなく、悔いる心、へりくだる心を喜ばれるからです。

*交わり

ディボーションはとても大切です。一日数分でも、イエス様と交わり御言葉に耳を傾け黙想し、祈る時を持つことは、私の内におられる聖霊が喜ばれ、その喜びが私に満ち溢れてくるからです。

*ミニストリーに加わる

伝道することにはそれが顕著に現れます。伝道すれば伝道するほど、救いの確信ははっきりしてきます。教会のあるいは超教派のさまざまな働きに積極的に参加しましょう。牧師伝道者だけではなく、一人ひとりが御言葉を宣べ伝えていく業に加わるなら、その人は「私は救われているだろうか?」と救いの確信が揺らぐことは決してありません。

救いの確信が揺らぐ、その時はある意味自分の信仰を吟味するチャンスなのかも知れません。イエス様に従うということは、喜びと祝福に満ちていますが、決断と犠牲も伴います。しかし、御言葉の約束に立ち、内におられる聖霊の声に聞きつつ、与えられたミニストリーに積極的に関わっていくなら、クリスチャン人生、こんな生きがい、やりがいのある人生はありません。