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revtakahashi立川福音自由教会牧師/JCFN理事 高橋秀典

この大震災を巡って、ある人は、人間の傲慢に対する神のさばきと言い、ある人は、日本に福音が広がるチャンスと言い、また、日常生活のすべてが神の恵みだとわかったと言います。私も礼拝説教のたびに、何かの解釈をしています。しかし、あらゆる解釈を控え、ただ、おろおろと、『主よ。あわれんでください・・・』と泣きながら祈る、そんな姿こそが、信仰の原点なのではないかと、ふと思いました。

私たちは何か途方もない事が起こると、それをどうにかして意味づけようとします。それは、想定外の事を想定内の事に置き換えようという意識の働きかもしれません。科学文明はある意味で、この世界に起こっている事を、人間の理性で把握しようとする努力から生まれています。しかし、それをそのまま信仰の世界に適用しようとすると、最も大切な真理を見失ってしまう可能性があります。

例えば、マルコの福音書十五章には、イエスの十字架の場面を目撃していた女性の名が記されますが、彼女たちは何が起こっているかわからないまま、ただ「おろおろと泣いていた」のではないでしょうか。そのような女性たちに、イエスは最初の復活の姿を現してくださいました。自分の頭で神のことを把握しようとしすぎると、想定外の神からの啓示が見えなくなってしまうような気がします。

今回の震災の犠牲者の約五分の一は石巻市からのものです。そこに、神学校の同期の金谷政勇先生が牧会する保守バプテスト同盟いしのみなと教会があります。彼は卒論で「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とのレビ記の教えが既に民族の枠を超えていることに注目し、私の目を開いてくれました。阪神淡路大震災の時は被災地の真ん中の神戸で牧会をし、その後、石巻に招かれ、所属教団の宮城県の議長として他教会のお世話もしていました。

彼は四月のニュースレターに次のように書いています。「どうしてこんなことが起きたのか…、わからないことだらけです。ただわかっていることは…被災された方々の悲しみを、主なる神が一番よく理解されているという以上に、主イエスが被災者と共に悲痛を味わっておられるということです。愛する者を失った悲しみに暮れる人々と、すべてを失って困窮し、明日が見えずにいる人々と共に、主イエスは今そこにおられ、人では負いきれない重荷を担ってくださるため、被災の地におられることを。そのため主は、御身体なる教会をお用いになり、日々新たにキリストのいのちを注いでくださっているのです。被災した人々に仕えるために…」

多くの教会員が被災する中、彼は、奥様とお嬢様達と共に支援物資を仕分け、配給し、またボランティアの方々と一緒に近隣のヘドロ掃除をし、その後は諸教会から送られたボランティアの方々を導いていました。その様子を思い浮かべたとき、そこに彼がここで記している主イエスの心が見えてきて、涙が出てきました。そればかりか、教会の多くの方々が仕事も住まいも失い散らされて行く中で、今後の教会と彼の家族のご苦労を思うと、おろおろと泣く事しかできませんでした。

私はこの大震災以来、心が硬くなって涙も出なくなっていました。危機的状況の中で、牧師としての使命を果たそうと焦るあまり自分の力で自分の心を律しようとして、聖霊の御業にゆだねることができていませんでした。しかし、現場の友の眼差しを通して大震災を見たとき、抑えていた感情が動き出しました。

ローマ人への手紙8章22~26節には三重の「うめき」が記されています。第一は、被造物全体のうめきで、それは現在の大震災の悲劇の中で聞こえるものです。第二は、御霊の初穂を受けている者たちのうめきです。これは、「嘆きのため息」とも訳せます。私たちは悲しみや不安に蓋をして、自分を守ろうとしますが、御霊は私たちの心が世界の痛みに共鳴して泣くようにと心を解放します。そして、そのとき第三の御霊ご自身の「言いようもない深いうめき」(深すぎてことばにできないうめき)が起きます。そして、そこから御霊のとりなしによって、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という不思議が始まります。

その意味で、現在の悲惨を見ながら、何かの解釈をする代わりに、ただ「おろおろ泣く」ことには、人知を超えた御霊の働きの始まりがあるのではないでしょうか。