Newsletter (Equipper)

revyonai.jpg米内宏明

JCFN理事
All Nations Returnees Conference実行委員長

人生とは手放すこと
「人生は何をつかんだかではなく、何を手放したか」*2)で決まる。人は何かをつかんで人生を完成させようとする。そして実績で人生が評価されると考えている。しかし、実際はその逆だ。たとえば、年齢が進むと、いたしかたなく手放していかなくてはならないことがある。体力、記憶力、立場、親しい者など。このように生きていくときに、「絶対にこれは必要」と思っているものを手放さなくてはならない時がある。

私自身は、大学を卒業してすぐに父を亡くした。大切な家族を手放すのは非常に大きな痛みが伴うこと。しかし、父の死後、自分の人生の軌道修正に迫られ、それを通して今は牧師として生かされている。

富める青年とイエス
マタイ19:16-22に富める青年とイエスのやりとりが書かれている。青年の問いかけの焦点は「何かを得ること」であった。永遠のいのちを得るために、何をしなくてはならないのか、との問いは、今の自分には何かまだ足りないものがある、ということ。つまり、もっと何かを掴むと幸せになれるという価値観だ。クリスチャンもこの青年と大差ない願いをすえることがある。たとえば、何か新しいものを得ることが自分の信仰の成長につながると思うことだ。

しかし、聖書は全く逆で、手放すことを迫る。聖書の初めの創世記から、「男はその父母を離れ、」(創世記2:24)と『離れ』ることを迫っている。離れて(手放して)、そして結ばれるのだ。イエスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、」(マルコ8:34)と迫られる。ピリピ書には「キリストは…、神のありかたを捨てられないとは考えず」(2:6)とあり、イエスご自身が、すべてを手放し、自分を無にして私たちの所にきてくださった一番の模範だ。

手放すという本当の意味
聖書は、手放すことは決して否定的なこと、自暴自棄になることではなく、実は、そのことを通して、もっと違う、深い神様とのつながりを得ることだと教える。

しかし、この青年はさみしそうな後姿を残して帰っていく。その一部始終を見ていた弟子たちは、「この人が天国に入れないのなら誰が救われるのか?」(25)と驚くほど、彼は非の打ちどころのない良い青年だった(20)。彼が行ってきたことや、持っている財産が悪いわけでもなければ、彼自身の生き方や、生活上に不足があったわけではなかった。

イエスの「もちものを売り払って」(21)のことばは、青年がイエスご自身に従うかどうかを試すための条件としてこう言われたのではない。むしろ、「あなたが永遠の命を得ることができないのは、あなたが握っていると思っているものがあなたの邪魔しているのだよ。」とおっしゃっているのだ。

正しいことも手放す
自分にとって正しいと思うこと。これを握っていたら大丈夫だと思えるそのこと自体が、時に私たちを苦しめ、がんじがらめにする。かつての成功経験や過去の恵みを握りしめているがゆえに、今、ここで受け取ることのできる新しい神様のお取り扱いや恵みを逃してしまうということが私たちにはあるのではないだろうか。

たとえば、日本や世界には多くの教会や教派がある。これらの多種多様な特色は神様の豊かさを表すべきものなのに、残念ながら衝突の原因や壁になったりもしている。自分たちの良いと思うことに固執するあまりに、もっと良いことを経験できなくしている。

さらに、海外でクリスチャンになって日本に帰ってくる人たちは、日本にいる私に「もっと」良いものをいつも見せてくれる(もちろん、「なんじゃこりゃ?」と思わされることもないわけじゃないが…笑)。彼らは私の枠を広げてくれる。実は、枠を広げられるということは嬉しいけれど大変な作業でもある。新しい恵みを受けるためには、自分が持っている枠組みや経験を手放す必要があるものだ。

こうあるべきという価値観や、自分ならできるという自信、培ってきたこだわりなどを手放すことが怖いのが正直なところなのだ。せっかく築いた人間関係や信頼関係も手放せないがゆえに、その関係の中の相手ばかりが意識されて、イエスから目が離れてしまうことがある。

いつでも誰でも
創世記の中で、アブラハムは多くのものを手放していった人だ。故郷から始まり、父、甥、家族を手放すように導かれる。最終的には、100歳を超えて与えられた一番大切な一人息子のイサクを手放すように導かれるのだ。残りの人生が短いアブラハムにも、神様は、人生の軌道修正を迫ったのだった。

年齢、立場、経験も関係なく軌道修正が求められている。海外にいようが日本にいようが、あるいは、日本にいる日本人でも外国人でも関係なく神様は私たちを取り扱われ、人生の軌道修正を求められる。自分のこだわりを捨てさせ、より良いものを見せることを通して、今まで持っていたものの良さも、今まで自分が属していた場所の良さも、逆にはっきりと見せてもらえるのだ。

この多様性にあふれた時代に生かされていることを感謝する。教会や教派、文化や民族を超え、海外にいても日本にいても、神様は継続的に私たちを取り扱おうとしておられるからだ。

待ってくださる主
最後に、イエスは何もかも捨てた後は、ひとりでがんばれと言ったのではなく、「その上でわたしについてこい」(21)とおっしゃった。つまり、イエスは「わたしはここにいる」「わたしはいつでも用意ができている」と、私たちが手放して、ついてくるのを待ってくださっているのだ。

今日のあなたはどうだろうか?
手放しきれない、握り続けていたいと思っているものがある人も、イエスは待ってくださり、その手放した手に、更に良いものを与えようとされている。また、手放す痛みを受ける状況にある人にも、その痛みの中でイエスは一緒に歩もうと待ってくださっている。

聖書には、手放すことを経験した人物であふれている。私たちもそういう人たちに習う者となりたい。なぜなら、イエスは必ず待っていてくださるのだから。

*1) G.MacDonald著「Mid-Course Correction」表題を上智大学の大塚寿郎氏が訳した表現。
*2) 早稲田大学の東後勝明氏のことば